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宇治古墳群史跡指定、宇治山名勝指定を契機にし、歴史ロマンとまちづくりをすすめることについて

 ーーーーー菟道稚郎子と宇治の歴史ロマンを考えるーーーーー

2018年11月18日

水谷 修

はじめに

 「宇治古墳群」が史跡に、「宇治山(うじやま)」が名勝にそれぞれ指定された。

 観音寺古墳、二子山北・南古墳、瓦塚古墳の継続的円墳、そして、南山城地域最大の前方後円墳の二子塚古墳が史跡に指定されたが、その理由を文化庁の答申では「ヤマト政権中枢に近い南山城地域において,地域内での古墳の展開とより広域的な政治的動向の両者を示す貴重な事例であり,古墳時代の政治的動向を知る上で重要である。」としている。つまり菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)とヤマト政権との関係に関わるストーリーが指定の理由である。

 宇治山は、宇治川右岸の仏徳山、朝日山、二子山と興聖寺、宇治上神社、宇治神社、恵心院の境内地などを含む範囲を名勝に指定されたものだ。宇治は往古より交通の要衝をなし、平安時代、江戸時代を通じて名勝地だったことから指定されたのだ。これも菟道稚郎子が営んだ宇治宮の場所であり、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の墓の可能性がある場所でもある。

 いま、菟道稚郎子にまつわる歴史ロマンに注目が集まっている。

 以下の考察から、第4項に記載する当面の対策を講じるよう提起するものである。

(菟道稚郎子は、宇遅能和紀郎子など多くの文字が当てられているが本項では菟道稚郎子に統一する。)

 

1、菟道稚郎子は実在か

 古事記によれば、応神天皇が「軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)•現奈良県橿原市」にて統治し、100人と結婚し男王11人、女王15人をもうけたとされている。中でも大山守(おほやまもる)命、大雀(おおさざき)命、菟道稚郎子の3人が有力で、応神天皇は、大山守命に山海の政、大雀命に天下の政、菟道稚郎子に皇位継承を約させたとされている。

 菟道稚郎子は、応神天皇と木幡村の豪族の娘である矢河枝比売との間に生まれ、渡来人から教養を受けて育った才人であった。木幡は宇治=「許の国」の「端」なのだろう。

 菟道稚郎子は「宇治宮」を営んでいたが、宇治宮を運営していた豪族が宇治連(うじのむらじ)・宇治部(うじべ)で、今回史跡に指定された二子山古墳は宇治氏の墓であるのだろう。宇治宮は宇治神社、宇治上神社、興正寺、恵心院あたりの宇治川沿い一帯にあったと見られている。宇治、莵道の地名由来が菟道稚郎子からきているのか、あるいはその逆なのか、いずれにしても菟道稚郎子が宇治発祥に大きく関わっていることが明らかだろう。二子山古墳の調査・研究がさらに進めば、宇治宮の存在が明らかになってくるだろうが、菟道稚郎子実在説が濃厚になってきている。

 

 

2、天皇即位の譲り合いは本当か

 応神天皇の崩御したときに、約束通りに菟道稚郎子が天皇に即位しなかったとされている。大山守命が天下取りを目指し兵を募った。その動きを知った大雀命が、菟道稚郎子に密告し、菟道稚郎子は宇治川で待ち伏せし、渡河しようとした大山守命を殺したとされている。

 その後、大雀命と菟道稚郎子が天皇即位を譲りあい、どちらも即位せず、世情不安を慮った菟道稚郎子が自死したとされている。しかしながら、皇位を約束されている菟道稚郎子が即位しなかったのは不自然だし、ヤマト政権をめぐり、菟道稚郎子率いる「山背勢力」と大雀命率いる「河内勢力」の権力闘争があったのではないだろうか。

 宇治は、宇治川の勾配が急流から緩流に変わる地点で、貯木場があり、宇治津もあった場所で、また、巨椋池を通って木津川、淀川に通じる場所であり、宇治橋架橋以前の時代にも交通の要衝であった場所だ。山背地方は、栗隈の大溝(おおうなで)にみられる大規模灌漑のより農耕が隆盛していただろう。ちなみに栗隈の大溝は現在の古川辺りであったが、仁徳天皇が造ったとされている。しかし、城陽の古墳群が4世紀〜5世紀のものがあり、山背地域一帯の勢力、久津川勢力の国力の強大さは相当であっただろうから、栗隈の大溝など大規模灌漑施設の存在は、仁徳以前のものであったのではないかと筆者は推測している。

 菟道稚郎子が皇位継承者という地位とともに強大な食糧生産力と財力を持って宇治宮を営んでいたのだろうから、菟道稚郎子が河内勢力と対峙していたのではないだろうか。

 天皇が暗殺によって皇位を手に入れたとのストーリーにできないから、日本書紀などで事実が歪められた可能性は拭えない。『播磨国風土記』には「宇治天皇」という表現もあり、即位したのちに兄に殺された可能性もあるだろう。

 

3、菟道稚郎子の墓はどこか

 菟道稚郎子の墓がどこか謎である。『日本書紀』に「菟道山上」に葬られたとの記述があり、また『続日本後紀』には、遺命して散骨させたという記述がある。

 古墳ではないものの朝日山(興聖寺背後)の山頂が墓所として墓碑の建立が行なわれたが、文献からの推定に過ぎない。1889年、明治政府が京阪宇治駅北に菟道稚郎子の墓と治定したが、これは明治政府にとって天皇が「万世一系」であるべきであるとの政治的思惑で治定したに過ぎず、その後古墳状に盛り土をしたものであるから、前方後円墳ではない。以降、菟道稚郎子の墓として宮内庁の管理下となっているが菟道稚郎子の墓である可能性はない。

 「仏徳山説」はどうだろうか。日本書紀の記述にある菟道山は宇治山であるのだから、位置的に仏徳山(大吉山)である可能性はある。仏徳山は古墳の形状をしていないうえ、王族の墓であるなら前方後円墳になっているだろうからそうでない可能性も否定できない。仏徳山は近年の盛り土の形跡が確認されているから元の形状がわからないので今後の調査が待たれる。散骨されたのであれば、古墳の形状である必要はないかもれないし、仁徳天皇に殺されたのであれば、暗殺者である仁徳天皇が、当時菟道稚郎子の陵墓を作らなかったであろうことも考えられる。

 杉本宏(京都造形芸術大学教授)氏は、宇治上神社が1060年伐採の檜材を用いており、1052年創建の平等院の荘厳化の時期と合致することから、藤原道長・頼道が平等院(彼岸)と仏徳山(此岸)との位置関係に着目していたと指摘している。

 大阪堺あたりの前方後円墳のいずれかである説はどうだろうか。可能性はあるが宮内庁管轄の古墳調査がされないと判明しない。

 二子塚古墳は前方後円墳であり二重周濠が巡らされており、継体天皇の墓と目される今城塚古墳(高槻市)と相似形であるので、菟道稚郎子との関連が推定されるが、年代が合わないので菟道稚郎子の墓ではないと思われる。

 

4、菟道稚郎子歴史ロマンを生かしたまちづくり

 宇治市は「秀吉と宇治」や「太閤堤跡」を軸に歴史まちづくりを進めようとしているが歴史ロマンの軸が偏っている。宇治は、古代より交通の要衝であった地で、源氏物語最後の十条の舞台であった地で、ヤマト政権が河内に権力を集中していく時期、平安文化の花咲く時期、足利政権が槇島城落城によって終焉した時期など、歴史の結節点においていつもその舞台になってきた地である。したがって、太閤堤や「秀吉とお茶」といったことだけに狭く着目することなく、宇治の歴史ロマン全体に着目したまちづくりが必要であろう。太閤堤跡につくる「秀吉とお茶」に着目した歴史公園に総額88億円を投入した一点豪華の歴史まちづくりは抜本的な見直しが必要であろう。以下、菟道稚郎子にかかる歴史ロマンなどについて当面の対策を講じられることを願うものである。

 

①仏徳山のボーリング地形調査、宇治宮の調査など

 菟道稚郎子の墓である可能性がある仏徳山に盛り土の可能性があることから、超音波探査やボーリングなどの考古学的手法による調査を行うこと。

 祭神が菟道稚郎子である宇治神社・宇治上神社や、仏徳山周辺をはじめとする地域で宇治宮の考古学的調査など調査を検討すること。

 

②市街化区域線引き、用途地域見直し、「景観地区」指定などで、史跡、名勝と宇治宮の背景地の保全

 今回、史跡および名勝に指定された地域およびその背景地、また世界遺産(平等院・宇治上神社とその周辺)および背景地、宇治宮とその背景地について保全を行うこと。

 二子山古墳の用地取得による保全を行うとともに、都市計画的な市街化地域・用途地区の見直しを検討すること。

 景観法、市景観条例による「景観地区」について、景観団体である市は未だ指定しておらず、早期に指定を行うこと。

 

③歴史資料館の整備、埋蔵文化財センターなど体制整備

 史跡・名勝指定を契機に、歴史資料館の整備や埋蔵文化財センターの検討をはじめ、行政の体制整備と充実を検討すること

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